西暦2015年頃だったかなぁ、読んだ本で、
「今日一日なにもすることがなかったとしても、とりあえず毎日、動画またはボイスメモを撮りなさい」みたいなことが書いてあった。
それを読んだとき、「へぇー、まぁ私には関係ないよなー。ブログに日記書くくらいならできるかなー?」
って思ってたけど、今なら、わからんでもない。
西暦2020年7月現在、スマホの機能が上がって、動画を撮ることと文章を書くことがわりと並列になってきた昨今において。
今は、スキあらば動画を撮ってます(笑)
当該文章の主旨は、
「(動画でなくともよいから)とりあえずちょっとずつでよいから毎日写真を撮るなり文章を書くなり、アウトプットする習慣を続けなさい」
っていう内容だったと、私は解釈し、記憶してます。
私が日々書きなぐってるみたいな、ザコな文章を書き続けたところで何の研鑽の足しにもならんぜよって指摘されたらグぅの音も出ないのだけど(爆)!
でも、
書き続ける、という行為自体は、なにかしら、
自分にとってメンタル上の(?)癒しにはなっていると思われる。
だって考えてもみてよ。
ぽつんとたたずんだとき。
なにがむなしいって、自分が生きた意味は無かったのかもって、自覚することだもん。
私、この3日なにしてたっけ?
わたし。この10年何してたっけ?
あれ?
っていう(笑)
こんなふうに、ふと、
考えなくてもよいような、非生産的なもの想いにふけったときに、
自分が毎日何を考えて、何を食べてきたのか、っていうベタな記録があったら、笑える・・と同時に心強くなりませんか?^^
・・現実的すぎて(爆笑)
だから、日記の内容なんてカッコ悪い事でいいんだよ(笑)
とにかくその日の気持ちや出来事を記録しておくだけでいい。
ていうか、むしろそれだけがいい。
カッコイイこと、書かんでいい。
その当時の自分にとって価値がないと思っていた日々の記録は、数年後に自分が読むとき意外に面白く感じられるはず。
「へぇー数年前のオレってバカだったんだなフフッ」てね(笑)
生きてきた証が、ちゃんと目に見える形で残されている、っていうのは、自分自身に対する癒しに成りうると思うんだよね。
続けているなにかを、視覚化できる形で残しておけるということは、目に見えない「過ぎ去った時間」を「永遠の黄金の額縁」へとどめておく作業だと思うんだよね。